うつについて
精神医学のマニュアルには“鬱病”の定義が載っていますが、おおまかに言うと気分の落ち込みや喜びの喪失、罪悪感といった精神的な症状や、食欲不振や不眠、疲労感などの身体にかかわる症状が5つ以上、2週間以上毎日続くものと説明されています。そのような鬱病までは至らなくても、“うつ”のような状態は、生きていれば誰でも体験しているのではないかと思います。また特にコロナ禍の出口がまだ見えない現在にあっては、うつではない人の方が少ないのではないでしょうか。
ずっとやりたかったことをあきらめざるを得なくなり、気力を失うこともありますし、大切な人との別れを経験して、しばらくなにも手につかないほどの衝撃を受けることもあります。職場の労働条件が悪くて追い込まれることもありますし、それとは反対に条件がいくらよくても、自分にとり過分な期待がかけられていると感じるとその重責から変調をきたすこともあり得ます(「昇進うつ病」など)。なにか倫理的に問題があるような秘密をこころに抱えても、罪責感情から気持ちが沈みこむことがありますし、自分の思ったようにものごとが進まない不全感から、うつになることもあるでしょう。これらは一例にすぎません。心理的な原因を探ろうとすれば、ひとりひとりまったく違う、多種多様な原因が見つかると思います。それもどれかひとつというよりも、複数のものが絡まり合っているかもしれません。
うつの状態から自分自身の力でなんとか抜け出ようとすることは、尊重されるべき姿勢だと思います。うつが軽い場合ならよいのかもしれません。しかしそうでない場合には、精神的に追いつめられて自殺などの取り返しのつかない極端な行為に至ってしまうこともあり得ます。ですからいつでも人に相談する勇気をもってほしいと思います。
主な治療方法
医学的なアプローチと、心理的なアプローチとに分けられるでしょう。医学的アプローチには、向精神薬を用いることが一般的だと思いますが、ほかに電気けいれん療法(ECT)、経頭蓋磁気刺激法などがあります。心理的なアプローチとしては、心理療法、認知行動療法、マインドフルネス、催眠療法、ゲシュタルト療法などがあります。医学的なアプローチは脳の神経細胞に薬物その他の手段を用いて働きかけるやり方です。心理的なアプローチは、その人のこころや精神といった目に見えないものの存在を想定して、それにことばを用いて働きかけることで原因を取り除こうとするものと言えるでしょう。うつを抑える薬を飲みながら心理療法をするなどの、両方のアプローチを組み合わせることもよく行われていることです。
この相談室で行っているのは上記の心理的アプローチの中にある心理療法になります。それでこのコラムの最後に、心理療法の症例をご紹介しようと思います。症例報告については守秘義務のことを厳密に守ろうとすれば事例小説といわれるフィクションを作る必要もでてきますが、すでに出版されている本からの引用であれば問題ないでしょう。ここではうつ病の女性の精神分析的な心理療法の例を、紹介しようと思います。これはフランス人臨床心理士で精神分析家でもあるパスカル=アンリ・ケレールが『うつ病』(白水社クセジュ文庫)という本の中で紹介しているケースを、読みやすくしたものです。
オデットは主治医に勧められて臨床心理士との面接にやってきました。彼女は主治医がいろいろ医学的な治療を試みてくれたものの、どれもうまくいかなかったと考えています。ここ十年来、毎日のように亡くなった父親を思い出して淋しい気持ちになり、悲嘆にくれて泣いていました。このようなうつ状態から解放されることしか頭にありませんでした。彼女はひとりでは行動できず夫の運転する車で面接に通ってきました。
それでも臨床心理士の言うように、“頭に浮かんだことをできるだけすべて、きたんなく話す”という自由連想を受け入れ、心理療法は始まります。そしてだんだんと娘のことや自分が小さかった頃のことを語るようになります。また、オデットはスーパーで働いていたのですが、いつのまにか建築家である姉と自分を比較しながら話をする癖があることに気がついたり、両親は裕福でなく姉の教育費しか工面しなかったと思っていることなどを語るようになっていきました。
そんなふうに分析をすすめるうちに、次のようなことが明らかになりました。オデットの母親が子どもはひとりだけで充分だと思っていたことや、オデットよりも姉をいつも高く評価していたこと。そういったことすべてを辛い気持ちでみていたけれども反発せずに黙って我慢していたことです。というのは父親にだけはそれらのことを話すことができ、父親がどこか共感してくれていると感じることができたからでした。オデットは出産して育児をしていくうちにそういった過去のもろもろを忘れて過ごしていたのですが、父親の死がきっかけとなって、以前の辛い記憶が呼び覚まされてしまい、うつ病の診断を受けるほどの状態に追い込まれてしまったのでした。
オデットは自分が父親にだけは本心を打ち明けていて、ある意味父親と秘密を共有して生きてきたことに気がつき、愕然とします。母親が自分に対してとても冷酷で不公平で意地悪だったのだと、思うようになります。それまでとは違って、オデットは家庭で暴君的に振る舞ってきた母親に対して言いなりになるのではなく、反発することばを見つけるに至ったと言います。この治療の作業が終わりに近づいた頃、心理士はオデットに「あなたはまるで、お父さんに対して伝えたかったことを、ここで私に語ったようですね」と伝えます。彼女は笑って「本当にその通りだわ」と答えたということです。
オデットの面接は一年弱のあいだ行われたと説明されています。こころの内を話してみることで自分がずっと母親との関係で苦しんでいたことや、父を失ったことがどんな意味をもっていて、どれほどの大きなことだったのか、はじめてはっきりと理解できたと思われます。子どものころはすべてがもっと渾然としたかたちで体験されていたはずです。自分と姉とを比較して生きることも、やめようと決めたかもしれません。オデットはこのようなこころの作業のあいだ、さまざまなことを想起しては、感情が激しく揺れ動いたりうつが強まったりした時期もあったかもしれません。しかしうつから回復して今後よりよい人生を歩むためには、それも受け入れることができたのだと思います。
参考文献:うつ病-回復に向けた対話、パスカル=アンリ・ケレール著 阿部又一郎、渡邊拓也訳/井原祐子協力、白水社 文庫クセジュ